岩屋山縁起

2019年3月17日

岩屋山縁起 足守藩六代藩主木下公定 現代訳文責 草野由之

 その山、山岳仏教を創めて、いよいよ霊的高まりを見せるところとなった。寺は名山を拠所として、いよいよ貴く、山は峨峨として険しく、万人の仰ぎ見る処である。清浄静寂で、仏に帰依する多くの者達が留まる処である。木々は鬱蒼と生い茂り清らかで、立ち並ぶ堂塔は荘厳で、さながら幻の城のようであった。しかし、始め有るは必ず終り有り、栄える者は必ず衰えるはうつつ世の常であり、形あるものの有様でもある。もし彼の者、出家して仏門に帰依しようとするならば、どうして来世の幸せを祈らずにおられようか。ここ備中賀陽郡岩屋山は私の領有する国を鎮め護る山である。

 古い言い伝えに、第三十三代孝徳天皇の御世、道教という沙門がいた。彼は下野の国円井の出身で俗名を若田氏といった。仏門に帰依して衆生を救済せんとして大願を立て、天下を行脚して廻った。たまたま当国に逗留していた或る夜、枕元に一人の白髪の老翁が現れ、『上人、懇ろに仏に仕えんと欲するなら、ここを去り北の方に連なる山登り、草庵を結んで修行しなさい、さすれば必ず素願が叶えられるであろう。私は毘沙門天の化身なるぞ。 仏法を擁護し衆生を哀れみ、誠を尽くすなら必ずや願力を得るであろう。』と言い終わるや、忽然と消え失せた。道教は大喜び、小躍りして生い茂った草木を掻き分けて峰をめざして登って行った。すると二十八人の沙門達が彼を出迎え、『私たちは毘沙門天に仕える童侍です。これから貴方を岩屋山へ案内致しましょう。』と言って岩屋に先導した。そこは高くて険しい峰々が荒々しく連なっていた。これが世に言う岩屋山である。

 道教は草を敷いて座り、仏を称え読経三昧の日を過ごした。すると鳥や獣が木や草の実を運んで来たので、彼は飢えや渇きを覚えることはなかった。ある日南西の方角にある深い谷が振動をはじめ、三日三晩光輝いた。道教は不思議に思ってその谷の方に行ってみると、その光は五尺ばかりの倒れ木から出ていた。よくよく見れば、虫に喰われたように『毘沙門天一切衆生』とあった。道教は喜びの余り感泣した。道教はその倒木を使って毘沙門天の尊像を刻み堂の中に安置し鎮護本尊とした。余り木は今も石と化して残っている。道教はその後も修行を重ねて、やがて入寂していった。

 さて、第四十二代文武天皇の御世に、或る夜、帝の枕元に白髪の老翁が現れ、『貧道は備中岩屋の僧侶でございます。陛下、将来は将に輝いておりますぞ。』と奏上して光を放ちながら消え去った。はたして皇后は身篭られたので、帝は三条左府家行卿を遣わした。家行卿がお告げのように岩屋山に到着すると、道教が卒した日であった。帝が夢を見た時には皇后は既に月満ちて皇子を出産していた。容姿は端麗であったが、皇子はものを言うことが出来なかった。帝は大変嘆き悲しまれた。

 皇子が七歳の春右手を挙げて西の方を指差したので、不思議に思って博士を呼びこれを占わせると、博士は『これは大変お目出度い兆しですぞ。皇子は備中岩屋山に行啓されると、将来が光輝く兆候が出ております。』と奏上した。役人に命じて皇子の前導をさせ、三十七日の後に血吸川の畔に到着すると皇子は初めて声を出されて和歌一首を吟じてから独りで岩屋山に登って行くと、六人の僧が現れて『殿下そのような年若い身でありながら何故このような険しい処においでになりましたか。』と言って、一人の僧が和歌一首を献じると忽然と姿を消した。六人の僧は六地蔵の化身であった。そこで皇子は、その処に六所権現を祭った。後の人々は、そこを菩薩坂と呼ぶようになった。

 帝はこのような不思議なことを聞こし召し、筑前守家定に詔して土木の事を司らせた。大匠は源左衛門尉と小野安次であった。 本堂には毘沙門天像を安置し、七つの門と塀で囲み、四角に櫓を立て拝殿の彫刻を施した柱には当然朱が塗られた。屋上には金の鳳凰をとまらせ、きらびやかなことは言わずもがなであった。南には五重の塔があり、厨房や楼閣には瓦を並べ、経蔵も設けられた。東には大門あり、中門にはそれぞれ衛舎を構えた。僧坊は二十八区、小院は百十四区である。皇子の仮の住まいは開山者道教の庵の後に設けられた。そして本山の寺名は、岩屋別称東塔院と号した。

 禅通大師は、沃田三百町を寄付し寺参とした。(寺曽田は朝廷から賜ったものか公候から寄付されたものか記録が無いので不明。)これ以後毎年三月三日には大法会が開かれるが、これは朝廷の使者による寄付によるものか。天平勝宝八年七月七日導師齢七十歳で穏やかに入寂された。

 かって正歴中山中に大蛇が棲んでおり往来する人々を呑込んだ。そこで此の寺の僧達が相談して巧みに人形を作り、体内に火薬と毒石をいっぱい詰め鐘楼にたてらせ鐘突きの紐をもたせておいた。大蛇は本物の人間と思い一口に呑込むと、やがて苦しみ悶え腹が焼けるように熱くなり、口から猛火を吐き、炎で草木や堂塔が一時に焼き尽くされ、怒り狂った大蛇は、谷を穿ち土手を突き破って青い海の底深く潜ってしまったという。また年を得て善快法印が一院を建立した。そして段々伽藍僧坊が建てられ、ほぼ往時のように復元された。文治年間に忽ち法難が起こり、再び堂塔が焼き尽くされた。その後宥善法印による美しい幻の竹篭の現れるような巧みな経営により再度復元したにもかからわず、百六回兵乱、三つの災いが交互におとずれて嘆かわしいか、すっかり荒れ果ててしまった。慶長十二年になって僅かに小堂が建立された。現在の毘沙門堂がこれである。時に九院あり、東の方に東坊(後成福坊とあらためられ、再度改められ慈尊院となる。)浄戒坊・宝積坊・中央中之坊(今の観音院)・蓮乗坊・岩本坊・西の方に西坊(今の延寿院)・智泉坊・閼伽井坊が有る。今山上に五院有り、その中四院は別村に移った。上足守の慈尊院・阿曽村の岩本坊(延寿院。金福院)・上土田村の蓮乗坊(弥勒院)がこれである。

 嗚呼、所謂始め有るは終わりあり、盛んなる者は必ず衰えるはうつつ世の理か。然るに、名山霊場の興廃、またその徳は書物よらねばならない。ある人が言うには、書物にも怪しげなこと正確ではない記載があり、人々の物笑いになっているものもある。古来、『山海経列仙捜神記・車志之書』が有る。これらもやはり書いてあることに拠所が無く、でたらめで疑わしい。尽くして書を信じ、書無くば及ばぬことである。予はここにおいて自ら其の伝え聞く処を記し、岩屋山の僧達の求めに応ずる。       

備中足守県主葵峯豊公定謹記 享保六年辛丑孟夏穀旦 文責 草野由之

Posted by 岩屋寺