岩屋寺の縁起

2019年3月17日

以下の文章は岩屋寺を再興した仁海僧正が岩屋山に関する史料をもとに、現在の岩屋寺の縁起を口語で記した物です

岩屋寺 再興仁海僧正の記した 岩屋寺の縁起  

岩屋寺の縁起 岩屋山は古く禅通大師の開創になる古刹、山岳仏教の霊地と伝えられています。古老の言伝えに依りますと「西の高野と言われ、金比羅・瑜伽権現両詣りと相まって隆盛を極めたと聞きますが、古文書や文献も少なく当時を窺い知るに想定の域を出ません。只信じられる唯一の資料は足守縣主葵峯豊公定(木下足守藩六代) 公より岩屋寺に寄贈された直筆「厳屋山記」一軸が現存します。 之の外個人所蔵の絵巻物が二、三軸あるようですが、いづれも後世これを絵とかな入り文字で平易に書き替えられたもののようです。

寺の縁起とか土地の伝説には現代感覚では理解し難い部分がみうけられますが、これらによりますと孝徳天皇(645~654)の御代、道教なる沙門大願を発し全国を巡錫中夢に白髪の老翁(多聞天の化身)現われ暗示により岩屋に登った。山は震動し夜光る五尺許の倒木を見付け良く視ると虫食の跡が「多聞度一切衆生」と読まれた。感泣しこの材にて多聞天(毘沙門天)を刻み堂に祀ったのが始まりとあります。

第四十二代文武天皇(697~706)夢に一人の老僧立ち「私は備中岩屋山の僧なり、王子に生れ来たらん」と奏し光を放ち去った。その後皇后は身因有り三條家の者勅を受け本郡へ調べに来る奇しくも帝が夢を感じた時道教示寂の日であった。后とは文武帝の後宮に入った藤原不比等の娘宮子ではないかと思われます。近年テレビ・新聞をにぎわす長屋王の頃です。生れた王子は容貌端正なれど生育しても言語を発せられなかった。七歳の春右手で西方を指し示されるにより、帝は博士に問い備中岩屋に嘉祥ありと鶴駕啓行され二十一日をかけ西に下られ本郡に到る。血吸川「みかど」と云う処で太子は始めて吟詠されたと云う。また山に登る途中六人の僧現われ「殿下妙齢におわすに何故険しい山に登られるのですか」と問うた。六僧とは六道能化の地蔵菩薩であり、和歌を奏して消えた。後の世、阿弥陀ヶ原の奥、急な坂道を菩薩坂と云い山上には六所権現を祀っている。帝はこれら数々の奇瑞を聞き大吉祥の地として筑前守家定を奉行職に、土木の大匠に源左衛門尉小野安次に勅を下し寺を造営させた。文武帝は慶雲四年六月十五日二十五歳で崩御されたのであり、皇子は西暦六八六年に生れたと思われるので、寺が建立されたのは六九三年から数年の後と思われ、今から千二百年前の事であります。本堂七間四面、鎮守二間四面、釈迦堂、経蔵、鐘楼、御供所、南に五層の塔、東に大門、中門を構え金鳳を配し丹塗荘厳な堂塔二十八区を数え、小院百十四区を擁したと記されている。皇子寓居の所即ち開祖草庵の遺跡をもって山号寺名共に「岩屋」と名付けられた。別称「東塔院」と言う。

禅通大師については資料なく判明されていないが、皇子の出家の後、皇室より賜わった大師号であり、岩屋にある「皇の墓」は大師の供艱塔ではないかと推測されます。六角の無縫塔は県下でも古く珍らしいものであります。当寺が管理し、前の総代板谷半太郎氏の申請により県の重要文化財の指定を受けた。禅通大師が寄付された沃田三百町歩の寺産を保有し毎年三月三日大法要が修さ れたらしく、土地の所在は判りませんが旧高松田中に「毘沙免」と云われた田圃が有ったと聞きます。大師は天平勝宝八年(七五六)七月七日世寿七十歳で入寂なさいました。 弘法大師が真言宗を広められ(806)皇族に享け入れられ直ちに真言宗寺院となったものと思われます。

平安の中期正暦年中(990~994)大火に遇うまでは隆盛を極めたであろう。大火は山に住む巨蛇を毒殺した時、激怒し火炎をふき堂塔は焼失したと云われます。何を譬えて巨蛇と言ったかは解らぬが一山総て焦土と化したとある。院政時代院のあつい仏教信仰により寺は権力を持ち又世 俗化していった。法親王など高い地位を占めた寺院は不満をいだく僧兵の強訴を受けたのかも知れない。暫くの善後快法印は再興を 計り漸次伽藍復興の矢先、文治年間(1185~1189)再び法難に逢い焚焼した。時に平家が滅び鎌倉幕府初期のことである。その後有善法印再興経営される。しかし、国土は騒乱し三災あって寺は壊滅荒廃した。記録はないが後鳥羽上皇が隠岐へ流された承久の変に関係していたのではなかろうか。寺領は没収され再起不能のまましばしの空白の時期があったようだ、この頃法然、親鸞、一遍上人による浄土信仰が盛んとなり、栄西の臨済禅道元の曹洞禅、一方日蓮が法を説いた時代である。鎌倉末期室町と戦国の世、とても寺の復興どころではなかったのであろうか。

桃山時代になって世情を反映してか領主の加護を受けたか岩屋寺も再び寺が建立され、慶長十二年(1607)毘沙門 堂小宇と九院が建立された。公定公が「厳屋山記」を記された享保六辛丑年(1721)夏には上足守村に東坊こと慈尊院(同院は一時、成福坊と云われて後木下公祈祷所として迎えられ慈尊院を改めた。初基比丘弘秀は事相によく通じ当時数回に亘り伝法の儀式を行なったらしい。本尊は金輪仏頂大日如来である。)上土田村に蓮乗坊こと弥勒院(同院は示現院と言い同地墓地の台地にあり後に現地に移る。宝暦十一年(1761)に建造した本堂は今の大師堂となる。本尊大日如来)阿曽村に西坊こと延寿院、また岩本坊こと金福院の四院が移建されている。檀家制度の確立にあわせ山を下り民家近くに這入っていったのであろう。奥坂岩屋には中坊が留どまり霊山を守り他に浄戒坊、宝積坊、智泉坊、勝伽井坊 が在り当時五院があったと言う。中坊が四坊も合併し持仏十一面観世音菩薩にちなんで観音院として岩屋山の法燈を守り継ぎさらに毘沙門堂を天和三年三月三日(1760)建立、文化年中(1810)境内も本坊跡に移ったと吉備郡誌に記されています。吉備郡誌によると他四ヶ院が移転した時期について、延寿院は西暦一五八〇年、金福院も同じく一五八〇年、弥勒院は一六八〇年、慈 尊院も同年とあるがこれでは公定公の記載と違いどちらが正しいのか信用し難い。延宝八年(1680)御室派仁和寺の御直末寺となり元禄十三年(1700)本山より院号を受けたとある三等格院十三等寺院とあり往年の寺格はこの時すでになかったようです。

栄枯盛衰は世のならいとは申せ淋しい思いが致します。岩屋寺跡の調査は郷土史家の手で若干進められましたが充分な調査はなされていません。石造物の点在により往時を偲ぶのみで次第と埋れ忘れさられようとしています。この時に当り檀信徒一同は観音院、慈尊院、弥勒院の三ヶ寺の興隆を願い、対等の合併を行うことにより岩屋寺を再興することと致しました。なお、山上の霊地は奥の院として永年護持するものであります。

平成三年三月三十一日  岩屋寺本堂落慶   再興 仁海謹記

Posted by 岩屋寺